1981年以前、南八下小学校へこの地区の子供達は通学していま
したが児童が多くマンモス校で新しい小学校を造らなくては・・・と、行
政が動き1982年、新しく小学校が農業用溜め池(小督池)を埋め立て
「引野」に出来ました。
その校名が「八下西小学校」となり、それに伴い通学・地域区割りが決
められました。
ここから「八下西の歴史」の誕生です。
(ホームページ管理人は1961年日置荘住民となりその後、引野町在住1964年から現在に至る)
その児童達が一番多く住んでいる「引野町」の由来を調べましたので
紹介します。(但し間違っている場合はご連絡ください)
1・福岡県北九州市八幡西区引野(〜丁目)
ここは「(北九州市立)引野小学校、引野中学校」あります。
2・山口県吉敷郡阿知須町引野区
(現在は合併して山口市になっています)
3・大阪府堺市東区引野(1丁、2丁、3丁)
4・兵庫県豊岡市引野
5・徳島県板野郡上板町引野
6・愛媛県越智郡上島町弓削引野
7・広島県福山市引野町(1丁目〜5丁目、引野町北1丁目〜5丁目、
引野町東1丁目〜3丁目、引野南1丁目〜3丁目)
一般に「引野」という地名は、低湿地を意味する「低野(ひくの)」、つ
まり福山弁でいえば「ひきぃ−野」が音便変化して「ひきの」になった
ものとおもわれます。
そして、それは多くの場合、新しく干拓あるいは開拓造成された地で
あることも意味すると考えて良いでしょう。
上記の各地の引野も、立地的におおむね、これに合地する地形と思
われます。
また、他にも「引田」「引出」「引津」などは低地を指す語源とされてい
ます。
一方、これと違った「引野」が私達住んでいる、その町名こそが「引野」
と思います。
古代、暦を管理したとされる日置部(ひおきべ)という部民がおり、こ
の人々が住んだ地域に「日置」という地名が残っています。「日置」
は「ヒオキ」「ヒキ」とも読み表記も「比企」「部木」「戸木」「戸岐」「弊
岐」といろいろあてられています。
でも我が住んでいる地区の引野は、中世に日置荘(ひきしよう)現在
もその町名があります、この地で、ここでは「日置」の文字が「引野」
に変化して「引野」にしようかと話があったが「日置荘」はそのまま残
し、新たな開拓地なので別途に「引野」にしようと決めたと思います。 (この文献は一部インターネットの「磐座亭(いわくらてい)」ブログからの抜粋で
すが、この色の文字はホームページ「八下西ふれ愛」管理者の感じた事を記載)
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